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第6回うおのめ文学賞掌編小説部門出品作品



     「あ たらしい病気」

   loiol






 ここ数年、一部の若者の間で流行している遊び「新説ウラガリア」。
 発端はフィンランドとかオランダとか言われているが、正式な名前は「シンセ・ツゥラ・ゲィリア」だとか。
 それが訛って「新説ウラガリア」。
 元の意味は「反証を拒む勢力」だとか。
 何通りかやり方があるらしいが、一番オーソドックスな方法は


1:ザクロ、銅線、鉄(釘など)、乾電池、コイン(一番良いとされるのは1セント銅貨。10円玉でも可)、を用意し
2:ザクロをよく揉む。
3:その後、ザクロの両端に穴を開け、一方に釘を、もう一方にコインを差し込む。
4:釘とコインに銅線を巻きつけ、釘の反対側にヒデル社の業務用マイクロチップを、コイン側には乾電池を巻きつける。
5:銅線の巻きつけられた乾電池を肛門に差し込む。
6:銅線の巻きつけられたマイクロチップを口に含む。
7:その状態で漏電した電気機器に触れたままスイッチを入れる。
8:と同時に口を閉じたまま「新説ウラガリア」と言う

のだ。

 その後スイッチを消し、再び入れる事で第一回転目のチャンスがくる。
 その時点で「新説ウラガリア」を反対から言う。
 つまり「ありがらうつせんし」と言う。

 これで一回転目の逆転が始まる。
 一回転目は左右の逆転である。つまり世界は鏡に映した状態になる。全てが左右反対の世界だ。直に文字もすらすら読める様になるという。

 第二回転目のチャンスはもう一度スイッチを消し入れした後だ。
 二回転目は左右の逆転に加え、上下の逆転現象が起こる。もはや歩行は困難となる。
 一般ユーザーはこの段階で特有の酩酊感を楽しむ事が多いと言われる。

 三回転目はそれらに加え、色が逆転する。白が黒になる。影は明るく、光は闇となる。
 自らを夜行性と呼ぶ集団が好む状態である。

 そして次の段階こそが本当の新説ウラガリアの始まりだ、とコアなユーザーは言う。
 なぜなら四回転目には全ての生物の内部と外部が裏返った世界が広がるからだ。
 内臓の細かいヒダヒダが身体全体を取り巻く様子が視覚的に耐えられない、と言う意見と、興味深い、という意見があるが、大よそのユーザーはこの段階にはタッチしない。
 ただ、この奥にあるステージに潜むウラガリアの真意を掴もう、という意志のある人々のみがもう一度スイッチを入れ直す。





インタビュアー:「なぜウラガリアをするの?」

A(18歳・女):「付き合ってた彼が教えてくれた。それにおもしろいから。体に害もないっていうし。」

B(22歳・女):「セカンド(注・二回転目の俗語)の状態で映画とか見るとすっごく楽しいよ。オススメはトムとジェリー。」

C(20歳・男):「普段考えないような事を考えるきっかけになるし、思考の幅が広がる。宗教的な感覚に気がつけたと思う。」

D(25歳・男):「ねじれないだけましだよ。反対暮らしも悪くない。それが普通になってしまえば正常だと見なしていた過去の方が暮らしにくかったりする。」

E(32歳・女):「逆になぜウラガリアをしないのか、と聞きたい。ウラガリアを糾弾しようとする人々はウラガリアによって救われた人々に目を向けていない。私もウラガリアで救われた一人だ。」





 五回転目、すなわち真性ウラガリアユーザーの言うところの「真意」のステージに何が起こるか。
 それは時間の逆転である、と言われている。

 ただ、この最後のステージについては今だに議論が尽きないのだ。
 なぜなら一方で時間の逆転が信じられている中、もう一方ではただ単に一定時間の記憶喪失状態の後に一回転目以前の状態に戻るだけである、と言われているからだ。
 そして、「真意」ステージの経験者(自称)は永遠にその経験証拠を他者に示す事が出来ない。
 なぜならそれは個人の心的経験に他ならないからだ。
 そして、何一つ物質的証拠は残りえない。

 つまり誰もその真意について明確な断言を下せない、というのが現実なのである。
 それでもユーザーはウラガリアを止めない。遊び半分で行う若者達が増え、その年齢層は低年齢化しつつある。


 と同時に幾つかの「真意」に対する証言とも妄想ともつかない噂が最近飛び交うようになった。
 それは「多くのユーザーが時間を逆転させたまま、戻らない」という発言が発端であった。
 時間の逆転、それは未来に向かって進む時間の流れに逆らう事を意味する。
 つまり「真意」ステージのウラガリアを始めた瞬間からユーザーは過去に向かって「生きる」事になる。
 「真意」ステージ経験者によれば、自分自身によるコントロールは時間逆転を再び逆転させる事以外、何一つ不可能な状態であり、巻き戻しの人生をただ受身の状態で経験し直すステージであるらしい。
 自分の人生をまるで巻き戻しの映画を見るが如く(実際には五感全てと共に巻き戻る訳だが)「生き直す」。
 いや、「行き帰る」。
 何一つ真新しい出来事の無い世界。
 全ては懐かしく、既に過ぎ去り「もう戻らない」、と定義された永遠世界。

 そんな「真意」ステージにハマり、逆転を戻さずに青年時代、少年時代、幼児時代、と遡り、遂にはそのまま生まれる以前まで巻き戻ってしまい、戻らなかったユーザーが多数いるのだ、と言い張る経験者が後を絶たないのだ。
 しかしながらこの証言も証明する事は不可能なのだ。
 なぜならそのまま立ち消えてしまったユーザーは、現時点において「いなかった」事になるからだ。
 残りの自分の人生を果たす唯一の存在である自己を放棄してしまったユーザーに「存在意義」が存在し得る訳がない。

 と言っても「真意」ステージが始まった途端にそのユーザーが突然消え失せるわけではなく、初めから「存在していなかった」事として現世に認識されるのだ。
 つまり母親はその立ち消えたユーザーを初めから「産んではいない」し、そのユーザーと友人関係にあった別のユーザーも初めから「そんな友人はいなかった」と認識する(し直す?)のだ。
 そして唯一、この証言を証明するための材料となり得るのが「真意」ステージの経験者の「記憶のみ」であり、彼らに言わせれば、『「真意」ステージの末に立ち消える事となってしまい、今現在存在せず、また存在していた事を証明する事が不可能であるが、確かに居た「はず」の友人ユーザー』を彼らはおぼろげであるが、しっかりと記憶にとどめているらしいのだ。






 ある経験者の発言はこうだ。
 その日、彼ら(経験者と立ち消えたユーザーF)は一緒に「真意」と呼ばれる幻の五回転目のウラガリアを経験するべくFの部屋で落ち合う。
 そして四回転目後に実際に時間の逆転を垣間見る。経験者とFは五回転目に突入する前に「実際に時間の逆転が発生した場合は5分間だけその状態を楽しみ、すぐに元の状態に戻ってくる事」という約束をしていた。
 経験者は約束通り過去へと戻っていく世界を5分間だけ楽しみ、そして再び逆転させた。
 そして経験者が戻ってきた時には部屋には彼一人が「入居者待ちの空き部屋」に居た、という事だ。
 経験者は何故自分がその部屋にいるのかについての経緯に関する記憶を少しも有していない自分に恐怖した。
 ただ一つ覚えていたのは実際に「真意」ステージは存在した、という確信のみだった。
 そして、ウラガリアが世間を賑わすようになり、また少しずつ「真意」ステージについて別のユーザーがその経験を言及するようになった頃、少しずつその日の情景の記憶を辿る事が可能になったという。

 つまり彼は今現在いない「友人F」を記憶の片隅で発見したのだ。
 つまり彼に言わせれば、「友人F」は確かにいたのだ。例え今現在そのFの両親が「私達は子宝に恵まれなかった」と答えたとしても、
「実際には彼らにはFという息子がいた」
はずなのだ。





 こうした証言が日に日に高まるにつれて警視庁は全面的に「新説ウラガリア」を禁止・取り締まる方向へ動き出し、同時に証言者に基づく情報による公開捜査を開始する。
 マスメディアを駆使し、「今現在存在しないが、過去に存在していたはず」失踪者を見つけるための情報を募るのだ。
 友人を失ったウラガリアユーザーが団結し、全面的に協力していたが、当の失踪者の家族達にしてみれば「存在しないはずの息子・娘」のためにその息子・娘と友人関係であった、と主張する怪しげな遊びに没頭していた若者達と共に協力する理由を理解するには難しかったようだ。
 それもそのはずで家族達はいない息子のために何をすれば良いのか見当もつかなかったのだった。
 いくら息子の友人(と言い張る若者)が「一緒に息子さんを探しましょう」と息巻いてみせても家族にしてみれば最初からそんな息子などいないのだ。


 こうした経験者達の主張は初め一大ニュースとして日本列島を駆け巡り、多くの専門家や識者達が様々な見解を繰り広げ、「ウラガリア五回転目の真意」として多くの雑誌等が特集を組み、その謎に迫ろうとしていた。
 同時に大半の人々は半信半疑であり、この解決方法の見つからない大事件の張本人(ウラガリア真意ステージ経験者)の証言こそがウラガリアによって何かしら「狂って」しまった結果の誇大妄想に他ならないのではないか、という声が多く上がったが、何しろ経験者ですらうろ覚えな証言であるゆえに、結局この「ウラガリア騒動」は時代のあだ花として次第に忘れ去られていくのだった。
 そうして多くのウラガリアユーザーが最終的には政府介入の診断により、ウラガリアの影響で何かしらの精神的な病気を患っている、と診断された事を聞いた様な気がする。。。





 今、私は「ウラガリア騒動が次第に忘れ去られていった事を記憶している自分」を再確認するためにこうして「記録」としてその記憶を文章化している最中である。
 なぜならばどうも私だけがこのウラガリア騒動と呼ばれる出来事を記憶している様だからである。
 先日、ふとした事でこの騒動を思い出した私は、私の家族や友人に、ウラガリア騒動を覚えているか、と聞いて回った。
 彼らはそんなものは知らない、まったく聞いた事も無い、と答えた。
 唯一、一人の博識な友人が、その騒動については何も知らないが、症例の少ない奇病の一つに「〜〜ウラガリア」というのがあった様な気がするな、と言った。
 私はその、「〜〜ウラガリア」、という「あったかもしれない」病気について調べようかと思った。
 しかしその必要は無かった。

 なぜならそれを聞いた瞬間に、以前から私の脳裏にちらちら姿を現していた妄想とも区別のつかない曖昧な記憶、つまり「忘れかけていた私の大切な友人、そしてその彼が立ち消えてしまった時の状況」についての記憶が一気に私の頭の中で現実味を帯び、確信めいてしまったからである。今現在、彼が存在していないという事実を冷静に理解していながら、である。  
 矛盾しているのだ。いや、事実が矛盾してしまったのだ。彼は居たのだ。しかし居ないのだ。居なくなったのか、元から生まれていなかったのか?ウラガリアが単なる世間的に認知されていない新しい病気に過ぎないのか、それとも過去に本当にあった事象なのかを実証する手立てが無いのは言うまでもないのだが・・


 とにかくこの記録がどんな影響をこれから私自身に、そしてこれを読む人に与えるのか、私にははっきりとはわからない。
 もしかしたらこの記録が読む人にとって何かしらのきっかけになるのではないか、と期待しないと言えば嘘になるだろう。
 ただ最後に、私の机にザクロや銅線が置いてある事をここに記す事にする。

 さようなら、と言うべきなのか。
 それとも単に病院に入れられてしまうだけなのか―

(了)



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