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第7回うおのめ文学賞短編小説部門出品作品



     「アンチ・アナストロフェ」

   loiol


 冬の柔らかい陽射しの中で読書をしていて図らずしてうっとりと寝入ってしまう事と、地中深く埋まった化石が気の遠くなる様な長い時間を眠り続ける事、それらの間には大差は無い。
 というのも、私がてっきり翌日だと思って起きた朝は、千年の時が経った後の朝だったからだ。

* 

 今、私が毎日起きてする事は、ベッドの横に開いている穴から外を数秒見る事だ。うんざりする様なだだっ広い水平線と地平線が見えるだけ。生き物の姿は一つも無い。ただ、空気や水分やらが風や波といった形で一定のルールで動いているだけ。鮮やかなほど無目的的な世界だ。
 おもむろに私は、固形の非常食をぽいと口に放り込む。食事は数秒で終了する。同時に、過ぎ去った世界に郷愁を寄せるのだ。
 過ぎ去ったといっても、私にとってはついこの間のものにしか思えないのだけれど。



 私が千年眠る前、このシェルターの中には私と両親が居た。
 私たちは暫定的にシェルターに篭っただけのはずだった。
 というのも、未曾有の超巨大彗星が地球に近づいてくるからだった。そもそも計算上、その彗星は百数年後に落ち始め、地球の遥か遠くを通り過ぎるはずだった。だが、その予想を大きく裏切り、彗星は近年に急激な速さで地球に近づいてきた。だが、新たになされた計算の結果、学者達は『彗星が地球にぶつかる事は98.79345%無い』と発表した。世界は安堵した。ぶつかったら地球はお終いだが、それより横断歩道で死ぬ確率の方が全然高いからだ。

 しかし、安全策として父は財産のほとんどを投げ打って長期型シェルターを購入した。そして万一の場合に備えて、すでに一般に浸透していたものの、それでもなお高価だったコールドスリープベッドまで用意したのだ。
 そこまでする人は稀だったし、第一シェルターを置く場所が私の家の周りに無かったものだから、私達は北米のど田舎まで行かざるを得なかった。
 それを父は勝手に計画し、提案した。もちろん私と母は大反対した。が、ちょっとした旅行気分を味わうつもりで、と恥ずかしげも無く泣き顔を晒す父に必死に懇願され、彼が極度の心配性である事を知っている私と母は折れた。というより、すでに全てのセッティングは終了しており、もはやキャンセルがきかないとの事だったので、結局私達は諦めて休暇を取り、アメリカの中部へ向かった。

 そして、ついに彗星が来た。念には念を入れて、学者達は分単位でその動きを観測して世界に発表していて、やはりどう考えてもぶつかるはずは無さそうだった。だからほとんどの人々はいつも通りに生活していた。
 非常に珍しい事態という事で、世界中でその彗星をイベントとして楽しむ人々がたくさんいたし、幾つかの終末論者や狂信集団が騒いでも笑い飛ばせる雰囲気があった。

 が、やはり父の必死な説得により、私達家族はシェルターの中に居た。父は集めに集めた様々な幸運グッズにかこまれながらニュースにかじりついていた。母はシェルターの台所が狭いと文句を言いながら何かと片付けていて、私はイベントに出かけている友達とチャットしていた。

 結果、予想通り彗星が地球に衝突する事は無かったのだが、唯一の想定外だったのは、その彗星の引力が巨大過ぎたため、通り過ぎる際に地球が瞬間的にひしゃげてしまった(と思われる)事だった。
 今でもその感覚は覚えている。瞬間的に、目の前が言いようもない具合に伸びて、体が浮き上がりつつも幾つもの破片に裂かれる様な痛みが走った。



 気付いたら私達を含む全てのシェルターの内部がひっくり返っていた。
 互いの身の安全を確認するとすぐに私達はニュースを調べた。地上波系のネットワークにはアクセス出来なかった。衛星系のネットワークには繋がったものの、いくら待っても何一つ新しい更新は行われなかった。
 一体何が起こったのか分からなかった。ただ、異常事態である事は間違いなかった。その証拠に恐ろしいほどの地鳴りがして、シェルター全体が細かく揺れ続けていた。

 ようやく父はもっとインディヴィジュアルなネットワークに繋いだ。そこに繋がっていた人の大半は私達と同じくシェルターに入っている人々だった。皆がパニック状態で、外の情報を欲しがった。共通して言うのは、恐ろしいほどの地震が絶え間なく続いている事、そしてシェルター外の人々と交信がほとんど取れない事だった。
 次いで、心臓が握られるほどの強い衝撃音が起こり、私達はシェルターの中で何度も投げ飛ばされる様に転がった。シェルターが位置していたのは、周りに畑などしかない平野だったのに、シェルター自体がごろごろ動いている感じだった。不安に押しつぶされそうになりながら私と両親は毛布を被り、必死に備え付けの手すりなどにしがみついていた。

 地震が止むと、今度は聞いた事の無い深い地響きと、細かいながらも上下に体が浮いてしまう程の揺れが始まった。ネットワーク上の幾つかの人々は、大規模な地殻変動が起こっていると言い、ある地方では大津波が起こり、すでにシェルターが飲み込まれたと報告していた。
 じきに、再び私達のシェルターは転がりだし、酔ってしまった私は嘔吐しながらも死に物狂いで何かにすがっているより他なかった。

 いつの間にか気を失ってしまった後、目覚めると真っ青な顔をした父が空気孔や脱出口を閉じていた。父は私を落ち着かせ、今現在シェルターが海中にあるらしい事を告げた。母は泣きはらした目をしながら、緊急用の圧縮酸素コンクルーダーを注意深く操作していた。
 彗星が通ってから30時間以上が経っていた。
 疲れてヘトヘトだった私は半ば気を失うように、ベッドに倒れこんだ。



 長い夢を見ていたとは思わない。
 ただ、眠る前のショッキングな事態が影響したのかどうか分からないが、灰色の人物が何か大事な紙をびりびり破いているのを少しの間眺めている、という夢を見ただけだ。破かれてちらちら舞う紙片を見て、私は、ああ、あの紙はもう元の一枚紙には戻らない、戻らない、戻らない…と反芻していた。

 私が目覚めた時、やけに天井がすすけて見えたので、疲れて目が霞んでいるのかな、と思ったがそうじゃなかった。実際にすすけていたのだ。
 何だか異様な気分で、すぐに飛び起きたかったけど、何か体が鉛の様に重かった。
 ようやくベッドから体を動かして目に入ったのは白い何かだ。次の瞬間に白骨だと認識出来た。嫌な予想が完全に姿を表す前に、私は両親の名を呼んだ。
 返事は無かった。
 起き上がった私は、軋む関節の痛みも気にせず、シェルターの中を錯乱気味に歩き回った。同じシェルターの中なのに、まるで見知らぬ場所に見えた。思わずして白骨を蹴り飛ばしてしまった。
 返事は無かった。



 頭を整理したかった。
 内部には誰もいない。いたのは私と、今や白骨化してしまった人(達?)だけ。すすけたシェルターの壁。壁には明るい青の塊。
 塊?
 寄って見てみると、穴だった。穴から外が見えた。晴天だ。
 硬く閉じられた扉を開けるべく円形の取っ手に力をかけながら、今だ私の頭は不器用に現状を把握しようと焦っていた。
 何が起こったのだっけ?私はいつコールドスリープしたのだっけ?一緒にシェルターに入ったのは誰だっけ?取っ手が少しずつ回り始める。そうだ、彗星が落ちた。地震の中で、私は震えていた。私達のシェルターが海中にある、と父が言った。そうだ、父が居た、母も居た。出口のハッチが開き、外から眩い光が入りこんでくる。

 目の前には地平線が広がっていた。一歩踏み出すと、足の甲辺りまで水に浸かった。浅瀬だ。良い風が私の頬を撫でる。ああ、一体何故私はここにいるのか。
 思考が止まってしまった。
 靴の中がぐっしょり水分にまみれる感覚を頭の隅で認識するのが精一杯だった。



 外があまりに明るかったものだから、シェルターの内部に戻ったとき、眩んだ目が慣れるまでしばらく待たなければならなかった。ベッドに腰を下ろして、目を閉じて乱暴に響く自分の鼓動を聞いている内に、徐々に幾分か落ち着いてきた。眠る前の事が完全に思い出せた。
 そして、慎重に考えを巡らせてみると、何故か私だけが長時間寝ていて、あの転がっている白骨は私の両親に違いなかった。つまり、今外に広がっている世界は、私が眠る前の世界よりどれだけか時間の経った後の世界らしかった。
 そこまで考えて、呆けてしまうのがとても恐ろしく思えたので、私はとにかくシェルターの内部を調べる事にした。
 酸素コンクルーダーから酸素が噴出していたが、どうも古い匂いがしたので止めた。圧縮水性パラフィンも随分な量が残っていた。それを見て喉がひどく渇いているのを自覚した私は、パラフィンを一枚舌に乗せた。すぐにお腹がいっぱいになるほど潤った。それと、何やらテープでぐるぐる巻きにされた紙の塊があった。見覚えがないものだ。
 丁寧にぴりぴり開けてみると数十枚のデータパネルがあった。ああ、でも向こうに転がっているコンピュータが視界に入った。スクリーンが割れている。これじゃパネルが再生出来ない…

 あとは、手動の発電機とお母さんの三面鏡があった以外はたいしたものは無かった。
 精神的に疲れた私は、ベッドにもたれかかった。横になりながら、一体世界はあの天変地異の後、どうなったのかぼんやり考えていた。
 救助活動は行われているのだろうか。さっき見た時、幾分かの固形食と水性パラフィンがあったけど、それもいつしか底をつくのは目に見えている。
 目覚めた時と同じ様に天井を眺めながら、ようやく両親が亡くなってしまったという事実が胸を締め付けだし、私は泣き呻いた。



 外はすっかり暗くなり、しん、と耳が痛くなるほど静まった夜の雰囲気は、私を心細くさせた。
 どうにも寝付かれない私は、ベッドの機器の蛍緑光が点滅しているのを見るでもなく見つめていた。しかし、トイレに行こうと思って、それまでぼやけさせていた視界を絞った時に、思わず目を疑った。機器の表示している今日の日付、それは3043年だった。それは私が眠る前から千年近く経った後の数字だ。
 あり得ない。故障か何かに違いない。馬鹿馬鹿しい、そんな長い間…
 だが、そう思えば思うほど胸がどきどきし出して、頭の芯が強烈に冴える。顔が紅潮して、全身から冷たい汗が吹き出す。嘘だ。そんな。私はせいぜい2、30年眠った位だと思っていた。千年だって?ああ、それは一個の生き物の命をゆうに超える長い年月だ。私は自分の寿命よりも長い年月を渡ってしまったのか。
 言いようも無い不安で心が潰れそうな気がした。あの日付は間違いであり、明日にでも救助用のヘリが空から飛んで現れてくれる事を祈りながら、私は毛布を被った。震えが止まらなくて困った。



 翌日、ベッドの機器をどれだけいじっても、故障は認められなかった。もし本当にずっと継続して正常に動いていたのなら、やはりここは千年後の世界なのかもしれなかった。ベッドは全部で三つあったが、他の二つは故障どころか、何か重いものに潰された様に破損していた。
 天気が良いので、両親のお墓を作った。そしたらどこか気持ちに余裕が生じ、外の様子を調べてみる気になった。

 基本的に目に入るのは砂とごつごつした岩、それとそれらを覆う水、時々吹く風、それと空くらいだ。地面の起伏が緩やかにある位で、とにかくだだっぴろい平野がある。だから地平線がまあるくシェルターを囲んでいる様に見える。
 人工物はこのシェルターしか見当たらない。しかもシェルターの外形が随分丸まっていた。海中を漂い続けた事で角が取れてしまったのだろうか。開いている穴の外側を見る。どうも人工的にこじ開けた様な穴だ。
 もう一つ、底の近くに何か模様がうっすらあった。いや、消えかかった文字だ。大半は読み取れなかったが、幾つかのアルファベットで書かれた単語は、「…came here……wait……was…2361/05/13.」だった。これは誰かが生き残った人が残したメッセージだと思われた。そして最後の数字は日付?2300年代というのさえはるか遠くの世界だ。

 シェルターから離れてしばらく行くと、海水が薄っすら現れる。もうちょっと行くと足首くらいまで浸るけど、また少し行くとほとんど水が無くなる。家を見失わない程度までどこまでも行ってみたけど、ずうっとそれ位の浅瀬か申し訳程度の海水が地面を薄っすら包む程度だった。そんな薄い海面の上を時折音も無く波がゆっくり線を描いて、どこまでも伸びてゆく。
 どこが陸でどこが海なのか曖昧だ。動物はおろか、植物の姿は一切見られなかった。
 ヘリは結局飛んでこなかった。


 
 来る日も来る日も、ヘリは来ないと分かっていながらもヘリを待つしかなかった。何故だか分からないが、陸上の移動手段を用いてではなく、空から助けが来てくれる事を願った。
 悪い夢だと思った。覚めるように願いながらひたすら寝た。
 しかし、よく考えると寝る事で夢から覚める訳がないから、覚める様に頭を壁にぶつけたりしたけど、とっても痛いだけだった。
 その内、私は夢を見ているのではなく、夢の中にいるのだと思った。つまりここにいる私は本体がイメージしている私自身であり、どんなに私がもがこうとも所詮イメージなので、本体が何かしらの刺激を受けない限り、なす術がなさそうだった。
 それとも、夢が私以外の全てを飲み込んで、私は外に取り残されたのだと思った。だから生物がまったくいない閑散とした世界に一人なのだ。
 それとも、もともと私の記憶さえもが夢かもしれなかった。ずっとここに居たのかも知れない。不老不死の存在が戯れに記憶を捏造して、仕舞いには本気で信じ込んでしまっているのかもしれない。
 そこまで考えて、その不毛さがばかばかしくて、私は考えるのを止めた。

 私という存在を中心に物事を考えるから、おかしくなるのだった。
 もっと大きな視点で今の現状を捉えると、世界自体はその姿を少し変えただけなのかもしれない。そうだ、この星が生まれて死ぬまでのスタンスで見れば、ちょっとした転換期に過ぎないのだろう。全ては無常だし、星の寿命もあるはずだから、それは至極当たり前の変化に過ぎない。ただ、人間が数十年しか生きられないからその変化はひどくゆっくり映り、あたかも永遠が存在するように思えるだけなのだ。その変化の中で、人類という存在が繁栄し、そして衰退していく事は別段おかしい事じゃない。人間なんてせいぜい百年で土に還る運命なのだ。
 もしかして、本当に人間は死に絶えたのかもしれない。

 だが、そう認めてみても、私にとっての今の世界は異界でしかなかった。
 というのも、今現在、私が生まれてから十数年の間に培った知識や文化を利用する必要が一切ないからだ。
 それどころか、何千年という時の中で人類が発明した文字など、今のこの世界にはまったく無意味だ。私は誰にも言葉を喋る必要が無いし、伝える目的が無い。また、例えば、携帯電話の使い方を知っている事など、無意味だ。
 だが、言い方を変えると、私がこの新世界の異物であり、前時代から取り残された遺残物に過ぎないなのだ。私が身につけたものは前時代にしか通用しない言葉・倫理・行動様式エトセトラ、つまり今現在、私一人にしか通用しない遺物ばかりなのだ。この世界には交わるものが何も無い。何もかも私と関係ない。

 とても基本的な存在、空気や水や鉱物など、は変わっていないかもしれない。しかし、そういった自然さえもが私に親しみの無い存在に映る。
 自然と一言で言っても人工的に作られた自然しか目にした事のなかった私にとって、現在私を取り巻く「新しく造り直された」自然の姿は、あまりにも生々しく、もはや異なるものである。
 加えて、私以外の全て、海や風や砂浜は完全に自然の摂理に則って、その形を変えるにもかかわらず、意思を持ってしまっている私が取る行為、例えば風が吹く方向に逆らって歩いたりするのはその摂理に反するものである。むしろ他の存在が難なく出来る自然な動きというものが、私には出来ない。私だけ出来ない―
 
 その状況を把握する事は、極めてシュールで、言葉に出して自分の声を聞かないと意味を掴みかねた。
 唯一私の心に浮かんだ確かな感情は、自分の運命を呪う事だった。

 それからしばらく私は鬱々と寝込む様になった。この世界で何をすればいいのか分からなかった。職業も関係ない、倫理も関係ない、それどころか私が生きようが死のうが関係ない。意味が無い。何も無い世界で私の意志だけがか細く点灯しているのを否応なしに感じるだけだ。



 私が毎日起きてする事は、ベッドの横に開いている穴から外を数秒見る事だ。うんざりする様なだだっ広い水平線と地平線、それと。生き物の姿は一つも無い。ただ、空気や水分やらが風や波といった形で一定のルールで動いているだけ。鮮やかなほど無目的的な世界だ。
 おもむろに私は、固形の非常食をぽいと口に放り込む。同時に、遠く過ぎ去った世界に郷愁を寄せるのだ。
 過ぎ去ったといっても、私にとってはついこの間のものにしか思えないのだけれど。



 ずっと引きこもっていると時間の感覚が曖昧になる。
 太陽が昇ったりしているのを見て確認しても、こう毎日毎日変化が無いと何時が昨日だったか、次の日になると分からなくなる。
 だから例えばノートに一日二日三日と書くとする。しかし、朝に今日の日付を書きとめても、午後になった時にそれを見ても本当に今日の朝に書いたのか、それとも昨日のものかどうか判別が出来なくなる。だからベッドの日付を見ても、同じ様によく分からなくなる。
 つまり時間の感覚が把握できなくなったのだ。ぼんやりしていると時間が逆行している気さえしたが、そうした感覚もじきに無くなってしまった。
 想像する限り、私の脳の時間を司る部分がその役割を放棄したか、もしくは時間というものが「自ら消失しかけている」ように思えた。
 だが、私にとって時間を失うのは言い様もない恐怖であった。つまり進みさえせず、また戻りもしない澱んだ空間に存在する事に対する恐怖である。そうなるとむしろ死は幸福な現象に思えた。もしひたすらに時間が進まずに、老いもせずこの意味の無い世界に存在し続けるとしたら―
 そんな恐ろしい事が時折頭をかすめ、ぞっとしたりした。

 それに対して私は私なりの抵抗策を取る事にした。
 恐らく世界全体は時間を必要としていないのだろう。だから頼りになるのは、他ならぬ時間を欲する私自身である。だから文字通り私は自らの身体を時計代わりにする事にした。もはや陽が上って下がって「一日」とするのは信用できないのだ。
 指の腹を軽く噛み千切る。そうすると、一定の時が経たなければその傷は癒えない。実際、傷の具合や私の身体の調子によって癒える期間は変わるだろうが、とにかく私は「傷が出来て癒えるまで」の時間を一日の単位として数える事にした。つまり癒えた時点で「一」とカウントし、すぐさままた傷を作るのだ。傷は治っても、傷跡はそう簡単には消えない。どうしても時間の経過を確認したい時は、その跡を数えれば良い。
 時折、どう考えても長い間が経っているのに傷が治らなかったり、反対に数日しか経っていないのにすっかり直ってしまっているように感じる事もあるが、身体というものが不変の法則の元に成り立っていると信じる限り、そうした感覚は気のせいだと思うようにした。治癒する時間がそんなにころころ変わるはずがないのだ。



 傷をつけ始めてから21日目。
 そうして自分を傷つけて日々を積み重ねる事は、新たな不快感を私に与え始めた。確かに時間という概念を体現できるのだけれど、それにともなう変化が乏しすぎた。体の生理現象だけで、身の回りはまったく変わらない。私は一人に変わりない。一人で延々と終わりのない階段を上り続けているようなものだ。
 そして、そうした不快感はあっさりと絶望感を凌駕した。
 冷静に考えれば絶望に打ちひがれるのはまだ早く、私のような境遇の人がまったくいない訳でもない。現に私は千年眠り続けたのだから、他の人々が同じように時を越えた可能性はある。
 つまり、私はまだ一人じゃないかもしれないのだ。そして、共に再び前時代を復活させる事ができるかもしれない。私は前時代の存在なのだから、そうした前時代の生き残りと共に生きる必要があるのだ。

 22日目、私はまだ見ぬ前時代の生き残りに会うためにシェルターを離れてみる事にした。両親の墓に向かって、いってきます、と言った。
 といっても、可能性は限りなくゼロに近い。第一歩いて探そうというのだから、もし生き延びた人々がいたとしても、彼らに出会える可能性自体が少ない。彼らが今だ海中に沈んでいたり、地中に潜っていたら探しようがない。
 それでも私は行くしかない。月並みだが人は一人では生きていけないのだ。

 へとへとになるまで歩いてみたけど、完全な平野だから、いまだにシェルターがかすかに見える。
 もうしばらく歩くと砂と浅瀬がなくなり、ごつごつした岩肌が地面を覆い始めた。携帯している水性パラフィンと固形食糧を口にして、揺れる蜃気楼を睨みながら私は黙々と歩き続けた。



 そして、26日目、驚くべき事に、私は淵に立っていた。つまり私がいた場所は台形状の高原の上部だったらしい。急な坂道が段々となだらかに裾広がり、さらに広大な世界が広がっている。しかし、見渡す限り岩肌ばかりで、動くものはおろか、緑さえ見当たらなかった。私は、引き返そうかと思った。行っても行っても同じ光景が続きそうだからだ。
 が、この上部から流れ落ちている水が合わさり、下の方では川となってどこまでも続いている。もし人々が生活するならば、水の周辺に住むだろう。
 私は、もう少し川沿いに行ってみる事にした。



 31日目、右前方にある向こうの丘から緑色の筋が延びていた。なんだろう、と思ってさらに行くと、その緑色は川で、私が沿って歩いてきた川と合流していた。不思議なのは、その川に流れている水が薄緑色な事だった。何かしらの成分が含まれているかもしれないから、私は極力近づかない事にした。



 38日目、その緑の川に沿う事7日、ついに私は見覚えのあるものを発見した。どう見ても人工的な小さな建物だった。思わず私は駆けていった。やっと、ほっとしたのだ。どこの国の人かどうか分からないが、とにかく人に会えるのが嬉しかった。声を出してコミュニケートしたかった。乱暴されても良かった。誰かに触れたかった。

 息を切らしながらやっとその建物にたどり着いた私の視界に入ってきたのは、今にも崩れそうなほどの外観、それとその傍には何とか岩盤を砕いて畑を作ろうとしたが果たせなかっただろう痕跡だった。パッと見たところ、人の気配は無い。いや、でも今まで生き残ってきたのならシェルターがあるはずだ。彼らは普段はそこに居るのかもしれない。私は嫌な予想をかき消し、中を訪ねてみる事にした。
 木製の建物のドアは既に無かったので、開ける手間が省けた。建物の雰囲気がアジア風ではなかったから、一応英語で挨拶をしてみたが、返事が無かったので進入してみた。

 中には懐かしい、前時代の生活の場があった。ああ、人が使うための物達、椅子や机や戸棚など、を見るだけでどこか安心した。それはこの新時代には無意味だろうけど、残された私にとっては十分意味がある。久しぶりに呼吸をした気がした。
 内部は思ったより整理されていたが、しかし、どう見ても何年も人が触れていない様子だった。ここを捨ててどこかへ行ってしまったのだろうか、と思っていると、奥の方の床に黒鉄のふたがあった。触るのを躊躇うほど錆付いていたが、力一杯力むまでもなく、ワリと簡単に開いた。同時に自動で明かりがつき、下へと続くはしごが見えた。地中型シェルターだ。電気システムはまだ生きている。

 声をかけたが返事が無いので降りていってみると、中は随分広く、幾つもの部屋があった。ところどころ外から圧迫されたのか、へこんだり破損していたが、いまだシェルターとしての役目を果たしているみたいだった。
 調理場に行くと、冷凍庫があり、どうも腐敗している様だが、中にはまだまだたくさんの食料が残っていたし、空気整備システムなども正常に動いているらしかったが、人の気配だけが一切しなかった。部屋を一つ一つ見て回ったが、一人もいなかった。
 思っていたより大きなシェルターで地下三階くらいまであり、奥には大きな扉があった。恐らく会議室のようなものだろう。私は思い切ってその扉を開き、そして思わずして息を呑んだ。

 そこには累々と白骨が横たわっていた。皆こめかみに穴が開いていて、ピストルが転がっていた。
 見る限り、あるものは手を組み、あるものは互いに抱き合っている風だった。
 私はその場に膝から倒れこんだ。ああ、何て事だ。彼らは自らこの世界に居る事を放棄したのだ。これだけの人々が共に生き延びながら―
 私の中で、最後の希望がガラガラと音を立てて崩れた。
 不意に私はピストルに手を伸ばし、そしてそのまま自らのこめかみに当てて引き金を引いた。
 ガチン、と音がしただけで弾は入ってなかった。



 私は再び絶望と向き合う事になった。これ以上、ここに居たくなかったし、先に進む気力がなかった。
 運よく正常に作動しそうな簡易コンピュータービューアがあったので、それと少々の食料や水、また、植物の種を貰う事にして、自分のシェルターに戻る事にした。
 再びとぼとぼと川に沿って帰る途中、あの白骨達の姿が頭から離れなかった。彼らは彼らなりにこの世界と対決したのだろう。そして、打ちのめされ、無力さを思い知り、自分達の存在がこの世界には不必要だと思ったのかもしれない。

 私はすでに死の誘惑に負けそうだった。今すぐにどんな方法でも良いからこの世界を去りたかった。その反面、それを是としない理屈を超えた感情が私を突き動かしているのも事実だった。そういう矛盾に葛藤する自分の心を落ち着かせるために、私はビューアを持ち帰る事にしたのだった。つまり、シェルターに残されていたデータパネルの中身を確認する、という目的をとりあえず達成しようというのだ。後の事はそれから考えよう、と割り切る事にした。

 ビューアだけでなく、植物の種も貰ってきた。食料はまだあるけれど、全て保存加工のため小さく、まるで柔らか過ぎるので、久しぶりに歯ごたえのあるものをかじってみたかった。厳密には食べ物ではないけど、まあ問題はなさそうだから気にしない事にした。
 緑色の川縁を歩きながら、早速私は種を口に放り込み、歯でぎりぎりと咀嚼した。身はほとんど無いけれど、噛み応えがあり、小さなキャラメルの様な非常食よりよっぽど食べている気がした。
 又、この緑の川は途中の丘から流れ込んできているはずだったが、合流地点まで行くと、元の流れ、つまり私のシェルターがある台地からの流れにも薄っすら緑色が混じっていた。私は先を急いだ。
 


 49日目、ようやく台地のふもとまで来たが、やはり上部より薄緑の水が流れてきている。もし、この上の平野一帯もこの水で満ちているなら、嫌が応にも足を浸して歩かねばならない。触れても大丈夫なのだろうか。

 急な坂を登りきり、岩盤地帯を越えて浅瀬が現れると、遠く微かにシェルターが見えてほっとした。でも、思ったとおり浅瀬は薄緑の水に覆われていた。その水に濡れる事に抵抗があったが、帰らない訳にはいかないし、どうせ儚く死ぬ運命でしかないので、えい、と踏み込んだ。
 特に足が痺れたり、痒くなったりする事もなかった。何かの色素が溶けているだけなのかもしれない。むしろ心地良い肌触りだった。

 シェルターが見えているからだろうか、私はほとんど昼夜休まず歩き続け、そして51日目にやっと帰ってきた。
 両親の墓にただいま、と言い、早速パネルを再生してみる事にした。発電機にビューアをつなぎ、パネルをセットすると、懐かしい映像が流れた。私が両親や友達などと一緒に映し出される。世界は元のままで、ごつごつした岩やだだっ広い平野なんか無く、人工物が溢れるごちゃごちゃした近代風景だ。私は涙を流しながら、失われた世界を見るのに没頭した。



 明け方、他のパネルとは違い、何のタイトルも日付も無いパネルを発見したので中を見てみると文書データだった。そして、恐らく私が眠った後に、このシェルターの中で父が打ち込んだであろう言葉が収められていた。

「愛しい××へ」
 という言葉でそれは始まっていた。
 あの日の地震で3つの内、2つのコールドスリープベッドがすでに破損していた事、残りの一つを私のために使おうと両親が決めた事、そして疲れ果てている私をベッドで寝かせた事が書かれていた。つまりそれから私は長い眠りについたらしかった。
 なんと身勝手な事をしてくれたのだ、と憤ったが、つまる所、二人は死を覚悟して私を未来に送ってくれたのだ。謝罪の言葉が身にしみた。
 父の説明によれば、ベッドはシェルターと連動してあり、こういった非常事態の場合、オート機能でコールドスリープできるのだという。すなわち明確な目覚めの時間を設定せずとも、外部の光度と安全な外気の濃度が一定期間正常に感知された後に、自動で目覚める様になっているらしい。つまりシェルターが埋もれていたり、水中にもぐり続けている場合、私は目覚める事はなかったのだろう。
 それからは、父の日記が綴られていた。
 当面の間、私はそれを一日ずつ読んでいく事にした。



 52日目、私は出来るだけ水分を抜いた砂をコップに詰め、植物の種を植えてみた。
 日記で、父は楽観的な展望を語っていた。人類は必ず復興するだろう、シェルターの中で息絶えるなど杞憂に過ぎない、と力強く言っていた。

 58日目、芽はなかなか出ない。私は地下シェルターの大量の白骨を思い出し、酷くうっとおしい気分になった。外で緑の水に浸っていると幾らか気分が良くなる。
 父は、母が熱を出し始めた事を告げた。インディヴィジュアルネットワーク上の人々は、次々と世界滅亡論を唱えだしたらしい。

 65日目、ずっと少しずつ体に傷つけて日数を数えていたのだが、最近傷の治りが早くなった気がした。
 父は、母が亡くなった事を短く語った。未だ救助活動は行われていないどころか、シェルター外の人々と一切連絡がつかないらしい。ネットワーク上の人々は現状を悲観し、励ましあいつつも、自ら命を絶つ傾向にあるらしかった。

 73日目、芽は出たが、ひょろひょろとか細く、すぐに枯れてしまった。日中部屋に居ると息苦しくなるから、ほとんど外で水に浸かりながら日向ぼっこをしている。
 父は、私のいる未来の事を色々想像している。あの地殻変動で地球がかなり姿変わりしてしまっているとは、彼はつゆとも思っていない。

 79日目、もう数日食料を口にしていないが、お腹がまったく減らない。足の先が少し変色してきた。恐らく緑の水のせいだと思う。だから、浸からない様にする。でもそうすると、喉が渇いて仕方が無いから、水性パラフィンを摂取するけど、体の芯は乾いたままだ。私は病気にかかったかもしれない。
 父の文章が乱れだした。だが、精神に異常をきたし始めている事を、彼自身自覚できているようだ。

 83日目、なんと信じがたい事に足の爪が痛みも無く剥がれ、先から植物系の芽らしきものが生え出した。抜こうと思ったが痛みを感じるので、そのままにしておく。それと、結局私は一日中外で、薄緑色の水に浸って眠るでもなく座っている。頭がぼうっとして思考がまとまらないけれど、とても心地が良い。体を動かすのがひどく億劫だ。
 父は、死を口にし始めた。

 86日目、芽がどんどん生えるだけではなく、すくすく成長してつる状に伸びたり、小さな葉が生え出した。確実に私の身に変化が起きている。それと記憶が曖昧になってきた。私がどんどん私じゃなくなってきているのを強く感じる。今はまだ良いけれど、その感覚さえもが徐々に薄れてしまう事を私は恐怖する。
 父はほとんど句読点が無い文章でこう書いている。

―――
「愛しい××
ぼくは君がめざめるせかいは素晴らしくふっこうし君はしあわせになっているだろうとねがっている
でも最あくのしなりおも起こりうるとおもうそれはきみが、ひとりでひどく辛いじょうきょうに居ることだ
父としてそしてきみをねむらせた責にん者としてひとつ贈りものをすると、きめた
おかあさんのさん面鏡があるだろう真中のかがみははずせる、おくにこげ茶のビンがあるはずだ」
―――

 そこで父の日記は完全に終わっていた。

 もはや足の自由がきかなくなった私は、這って端に積んでおいたごみの山へ向かった。母の三面鏡を見つけ、鏡を割ると中に空間があり、確かにビンがあった。ビンは半透明のガラス瓶なのだが、中身は何だかよく分からない。何かごろごろしたものが入っている。そして、何重にも折った紙がビンの底に張ってある。
 それを注意深く開いてみると、そこには父の筆跡でこう書かれていた。

―――
「愛しい××
 最初に言うが、もし君が幸せに生きているのならば、今すぐこのビンを捨ててしまって構わない。
 しかし、もし君が生きる意味を失っているのならば、よく聞いて欲しい。
 ビンの蓋を開け、少々の水、それと二酸化炭素、つまり息を吹き込んで、再び蓋を閉めなさい。
 そして、しばらく、そうだな、3時間ほど待てば良い。
 そしたら、屋外で蓋を開けて、離れて見ていれば良い。
 水分と二酸化炭素が中の粉末と混じり、それが大気中の成分と合わさる事によって、ある化学反応が起き、半透明の結晶が形成されるだろう。
 君がどうしても死を望むのならば、その結晶を一つまみ飲めば良い。大した痛みも無く、君は意識を失い、やがて緩やかに生を失う事が出来る。つまりこれは致死量の猛毒なんだ」
―――

 私はそこまで読んで、握っていたビンを見直した。
 これがあれば、私は自ら命を絶つ事が出来る。
 握っている指の先からも緑の芽が生えだしているのが目に入る。私の体は、私の意思を無視して、この新しい世界に適合しようとしているのかもしれない…

 私の身体、それだけではなく意識さえもが毎日変化し続けていく。
 世界が変わらない代わりに自分が変化するのは予想外だったし、何より私はその変化をひどく恐れている。
 いや、今の私が「いなくなってしまう」事を恐れている。
 私という存在は変わらずあり続けるだろうけど、その新しい私は、今の私ではないのだ。
 私が別の何かになってしまう前に、私が今の私自身を失ってしまう前に、死ぬべきなのか、私には分からない。



 92日目、父の手記はすでに終わってしまったので、私はひたすら自分の思考と向き合うしかない。というより、もう字を読むのがひどく辛い。徐々に意味が読み取れなくなってきている。過去の事を思い出そうとしても、それさえ難しくなってきている。
 私の体から生えた芽はどんどん成長して、私の体を覆いつくそうとしている。これ以上、現状を維持していれば、明らかに、私は失われてしまう。だから、まだ私という意思が私自身を捕まえられている内に、死ぬ覚悟を決めた。


 指を満足に動かせないので口を使って水を用意したり蓋を開けたりした。不注意で唇を切ってしまったので、水を入れる際に血が混じってしまったが、問題無いだろうと思われた。最後に息をふうっと入れ込んで、蓋を閉めた。
 後は、待つだけだ。
 私は、シェルターの壁に寄りかかり、世界を見納めていた。突き抜ける様な晴天である。


 恐らく数時間後、私は注意深くビンを開けてみた。
 ビンの口から、何かが噴出する音が静かにし、ビン全体が微かに震えだした。
 と思ったら、ビンから薄桃色の結晶がバキッと出てきた。
 次いで、空気に触れて化学反応を起こしているらしく、ビキビキビキビキと幾本もの筋となって空に向かって結晶が連なりだした。
 それは、ある程度伸びきると、先の方に結晶が溜まりだし、瞬間、バキンッと破裂したので、私は驚いて目をつぶった。

 そして、恐る恐る目を開けてみると、なんとそこには花が咲いていたのだった。
 いや、花の様に結晶が開いていたのだ。

 私は、突然の出来事にあっけに取られた。
 それは、あまりにも美しかった。昔、見た覚えのある花に見えた。
 思わず見とれていると、ふいにビウッと一陣の風が吹いた。
 その花は脆くも砕け、空中に舞い、光に反射してちらちらときらめいた。まるで花びらが吹雪いたかの様だった。


 綺麗に咲き、そして儚く散っていったその結晶の様を見た瞬間、私は命のあるべき姿を悟った気がした。
 それを悟る前は、変化を拒絶し、人間であり続けようという意思が炎の様に燃え上がっていた。しかし今、心の奥の方から、生命のイメージが湧き出し、穏やかな膜となって炎を包みだしたのを感じた。
 前時代の遺物としての私を死なせ、この新時代の存在として「生まれよう」、そう思えた。しがみつくのはでなく、受け入れて、ただ在れば良い。そして時と共に静かに去れば良い。
 そう思えた時、全てのもどかしい気持ちは消え失せ、とても晴れ晴れとした気分になった。すでに目が利かなくなってきているので、世界は霧がかった様にぼんやりしているが、空から降り注ぐ光や頬を撫でる風などが分かるから、それで良かった。
 すでに地面に根を張っている足も、指の先から芽生えてくる葉も、そして消え行く意識も、全てそうなるべきのもの、と思えた。


―思えば、私は新世界の原始の存在なのかもしれない。
 何千年後、何万年後かに再びこの地上に世界を築くだろう存在達に思いを馳せながら、
 私はそっと目を閉じた。







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